園長先生が褒めてくれました!
お寺の幼稚園のお遊びの時間に、園庭で拾った葉っぱで貼り絵を作ったのです。 どんな絵だったかは忘れてしまいましたが、とにかく園長先生が褒めてくれたのです。 遠い昔のことですが、覚えています。
小学校に入って、たぶん得意になって絵を描いていたのです。
3年生にあがった頃、 「絵は物差しを使って描くものでは有りません。」と絵の先生に言われてしまいました。
煙突が真っ直ぐに描けていたのを、そんな風に言われてしまい、悲しかったです。 「ものさし」など使っていないのに!
先生はそれ以降、私の絵を決して褒めてくれません。
学校の行事の案内ポスターも得意になって描いていましたが、絵と同じように褒めてはくれません。 悔しい思いでした。
そんな思いをしながら小学生時代を終えました。
中学、高校ではもう絵には興味を失っていました。 英語が好きになって海外のペンフレンドと文通などしていました。
外国に興味を持ち出した私は、上智大学外国語学部ポルトガル語学科に進学しました。
そうそう、進路を決めるころ、ふと芸大に行くのも面白いかなと思いました。
たまたま、叔父が東京藝術大学を出ていたので、軽い気持ちで話して見たら、「基礎のない人間には無理!」とこれまた軽く言われてしまいました。 「そりゃそうだ。」と思い、絵のことは再び私の頭からは消えてしまいました。
毎日がつまらなかった。
大学を卒業し、ブラジルのAIRLINEに就職しました。 毎日狭い部屋で電話とテレックスを打ちながら、予約のお客さんの相手をする日々は私には不向きでした。
一年で辞めて、その後は貿易、家電会社などを転々としました。
33歳のとき、デザインの仕事を・・・
家電販売会社ではなんと総務課に配属になり、しばらく頑張っていましたが、これも性に合わず企画課に変えてもらいました。 パンフレットやチラシを発注する仕事でした。 楽しかったです。 会社の寮に泊まったりしながら我武者羅に働きました。
3年経ったころ、会社がおかしくなり辞めていく人が続出。 私も思い切って辞めました。
家電販売会社や街の電気屋さんの販売促進をお手伝いする仕事を始めたのです。
他にも印刷会社から本のレイアウトや挿絵など何でもやらせてもらいました。
ゴルフを始めました。
高校の時から叔父の趣味のゴルフのキャディーをしていたので、我流ですが何とかコース回れるくらいのことは出来ました。 昔の会社の仲間達とのラウンドは楽しかったです。 ハーフの時のビールの味は忘れられません。
でも、仕事関係の人とのゴルフは気を遣うし、あまり面白くないし、個人ではお金も掛かるし、どうしたものかと思っていました。
そして、40歳の誕生日についに私の人生の方向が、大して熟慮とやらもなく決まってしまう流れが出来たのです。
ある文庫本との出合い
絵を描くことの基本を知らない私でしたが、時間があったら気分転換にガンガン描き始めました。 身近にあった画用紙にサインペンで、、、台所にあった野菜、やかん、コップ等何でもかんでも。
楽しかったのは、学生時代にスエーデンのストックホルムでアブバイトをし、お金を貯めて、ヨーロッパを放浪したときの写真を見て描く事でした。 当時に事を想い出しながら、、、。
プロフィールのところにも描きましたが、飲んだ勢いで個展をやることにしてしまった後、「こんな絵でいいのかな~??」と思うようになりました。 身近な人は「上手だね、良い絵だよ。」な~んて言ってくれていましたが、不安だらけでした。
そんな時、本屋さんで偶然「エンピツ画のすすめ」に出逢ったのです。
要するに「絵は自由に、自然に、楽しく描けば良い。」と言う事だと私は解釈し、背中を押してもらえたのです。
先生に付いたり、教室に通うことはしたくなかったのです。 先生に付けば納得がいかなくても、先生の言われることを聞かねばならず、「自由」がなくなると思ったのです。
ですから、本を読み、テレビの講座を観て、自分の納得が行くところだけ採用することにしたのです。
絵は好きなように、自由に、自分の想いを描けばそれでよいのだと思えるようになりました。
その絵が世界に一枚の絵であり、描いた人の最高の想い出になるのです。
ありがとうございました。
ズキンとしました。
気持ちが軽くなりました。
それは良かったです!^-^
ポルトガルに移住するまで、教室(皆さんで自由に描く、一応私が講評をしていました)を持っていました。下書きをしない私の描き方にびっくり、戸惑っておられましたが、皆さんもいつの間にか下描きなしで、普通に描かれていました。 やはり勢いのある、発色の良い絵になってました。